おかえりなさい

130521neko16

私は昨日、康生の商店街をふらふらと歩いていました。目的があるわけでなくただ散歩がてらに歩いていたのです。その日は靴がぺたぺたと地面に張り付くような、湿っぽい空気が漂い、これはひと雨降るかな〜と空を見上げました。すると空中に黒く小さく丸いものがあることに気づいたのです。

注視すると、その丸いものは徐々に大きくなってやがて分裂をはじめました。
思いもよらないその出来事に幻覚ではないかと目をこする。次に目を開けた瞬間
「あ!」
私は黒い丸いものに吸い込まれていたのです。

どのくらいの時間が経ったのか、それとも瞬間的な出来事だったのか。
気づけば同じ場所に立っていました。
それが何だったのか、何が起きたのか理解できず、ぐるりと辺りを見渡すと、突然懐かしいような、見たことのない風景が目に飛び込み、驚いて瞬きした途端に元に戻っていました。
さっきの風景は何が違っていたのか、はたまた違っていなかったのか不思議な感覚に包まれて立ち尽くしていました。すると
「お帰りなさい」
声が聞こえました。誰?
振り向くとそこには、いつもと変わらない風景。バスを待つ人、店舗に配達を急ぐ宅配便ドライバー。どうやら私にしか聞こえていない“声”だったのです。
あまりに説明がつかないこの出来事に、体調不良かもしれないと自分に言い聞かせつつ、とぼとぼと帰路に着くとまた「お帰りなさい」と声が聞こえたのです。これは本格的に自分が壊れてしまったのかもしれないと、耳鼻科か、精神科かそれとも眼科かと考えながら足早に歩を進めると、また
「お帰りなさい」
「痛!」
半分錯乱していた私は声に驚いて小さな段差につまずいて転んでしまったのです。
視界がぐるりと反転し、私の視線の先に居たのは一匹の猫でした。
「お帰りなさい」
なんと猫が話しかけているではありませんか。
ただいまと言っていいものか、誰ですかというのも変だし、錯乱が続くうちに猫が話しを続けます。
「私はこの近くに住む遺産の神です」
いさん!?それの神っているの?ともあれその神は続ける。
「最近、このまちには人が来なくなった。その分、遺産が増えて来ました。そこで私はこの遺産を伝えることをしなくてはなりません」
勇気を出してというか、もはや何がなんだか分からず正気を保つために咄嗟に話す。
「遺産の神様ってなにするの?そして遺産て増えてなくない?」
神様は淡々と続けます。
「遺産はあなたの心にもあります。そしてご覧なさい。あなたにはもう見えているはずです。このまちのたくさんの遺産が。そしてそれを伝えなさい。私はずっと昔からそれを見て来ました。でもそれをみなに伝え広めることができないのです。このまちに懐かしみの心や愛着を持ったあなたのような人を待っていました。あらためてお帰りなさい。新しい遺産がたくさんあるこのまちへ。そして頼みましたよ」

頼みましたよ。頼みましたよ。頼みましたよ。洞窟の中で聞こえているように響く声が繰り返し、遠くなっていく。と同時に意識が薄れていきました。

ハッ!と気がつくと。

「あたなにも見えるのかい。このまちの遺産が」
そこには、髭の初老が立っていました。何のこと?でも遺産って言ってる、夢じゃないんだ、さっきの出来事は。私は一部始終をその初老に説明し、どうしていいものかを相談しました。どうやら同じように遺産が見える人は徐々に増えていて、それを見える人たち数人で集まって研究所をつくっているらしい。そして、神様?の言う通り遺産を世に広めるために日々研究し活動しているのだという。
話すうちに心の落ち着きを取り戻し、徐々に周りの情景が目に入ると
「あれ?あんなところに光ってる看板がある」
まちの景色に違いがあることに気づきました。
「やはり見えるのだね。私も猫の声が聞こえるのだよ。だからどこからか聞こえるその声を辿ってきたらあなたが倒れていた。だからひょっとしてと思ってね。どうだい、あなたも研究員になってはくれまいか」
「やりたいです」
すぐに決めました。あの昔からあるのに光っている看板は何なのか。あの神様はいったいどこから来たのか。そしてお帰りなさいの意味。一緒に活動することでわかってくるかもしれない。何より、その輝きが懐かしくて引き寄せられるような感覚があり、居ても立ってもいられなかったのです。

私は、今日から康生昭和遺産研究所の登録認定員。今このまちにある遺産を研究するものです。